104.男性も女性も同じ尊厳を持つという確信に端を発した、女性の正当な権利の要求は、教会にちゅせんし、表面的に口実を作ってまぬかれえない深い問いを立てています。聖体祭儀において捧げられる花婿であるキリストのしるしとして男性に専有化されている司祭職は、議論の余地のない問いですが、秘跡的権威をあまりに権力と同一化させるならば、特に対立的になりうる問題です。司祭の権威について語るとき、「ここで考えられているのは役割であって、尊厳や聖性ではない」ことを忘れてはなりません[73]。奉仕職としての祭司職は、イエスがその民への奉仕に用いる方法の一つではありますが、大いなる尊厳は、誰にでもアクセス可能な洗礼から来るのです。頭であるキリスト、つまり恵みの主要な泉としてですが、その頭であるキリストと司祭との互換性は、残りの人の上に司祭を据える称揚には当てはまりません。教会においては役割というのは「他の人々の上にある人々を置く【優位性には場を与えない】のです」[74]。実際、一人の女性、マリアは、司教たちよりも重要な人物なのです。奉仕職としての司祭職の役割が「位階的」であると考えられる時ですら、「キリストの神秘体のメンバーの聖性に完全に従うもの」[75]であることを肝に銘じておかなければならないのです。その鍵と支柱は、支配として理解される権力ではなく、エウカリスティアの秘跡を司式する権威なのです。ここからその権威が派生します。それはいつでも民への奉仕にあります。ここに、司牧者たちや神学者たちに対する大いなる挑戦があります。これは教会の様々な環境において、重要な決断をする場で女性に与えられるる場でこのことが敬意をもって意味することをよりよく認識することを助けることができるでしょう。
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