2014年3月25日火曜日

121 第三章 福音の告知>I.神の民全体が福音を告げる>わたしたちはだれもが宣教する弟子



121.当然のことながら、わたしたちは全員福音宣教者として育つように呼ばれています。わたしたちは同時により良い養成と、わたしたちの愛の深化と、福音のよりはっきりとした証しに努めます。その意味で、わたしたちはだれでも他の人がたゆまずわたしたちに福音を伝えるようにしなければなりません。けれどそれは福音化の使命を後回ししなければならないことを意味するわけではなく、わたしたちが見つける状況にふさわしい、イエスとコミュニケーションをとる方法を見出すことなのです。どのようなケースであれ、わたしたちは皆、他の人々に、わたしたちの不完全性をはるかに超えてわたしたちにその近さ、そのみ言葉、その力を差し出し、わたしたちのいのちに意義を与えてくださる、主の救いに連なる愛のはっきりとした証しを提供するように呼ばれています。(今これを読んでいる)あなたの心は、イエスのいないいのちは同じではないことを知っています。そこでそのあなたが見つけたもの、そのあなたが生きるのを助け、あなたに希望を与えるもの、それこそが他の人々に伝えるべきことなのです。わたしたちの不完全性は言い訳にはなりえません。その逆に、宣教というのは、中途半端な状態にとどまらず、成長し続けるための、たゆまぬ刺激なのです。あらゆるキリスト者が差し出すように呼ばれている信仰の証しは、聖パウロのように「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと(わたしのレースを続けて)努めているのです。[…](そして)前のものに全身を向けて(身を投げ出しているのです)」(フィリ31213節)。

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