2014年3月24日月曜日

95 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>霊的な世俗性への「いいえという答え」



95.こうした暗い世俗性は多くの場合、表面的には正反対の態度で現れてきますが、「教会のスペースを我が物顔で占める」という同じ意図によります。ある人たちには教会の典礼や教義、名声に対する過度な保護意識があるけれど、福音に神の忠実な民の中、また歴史の具体的な必要性の中へのほんとうの導入があるようにという配慮がありません。そのようにすると、教会のいのちが美術館の一作品、あるいは少数の人々の所有物となってしまうのです。ほかの人たちの中では、社会進出や政治進出を示すことへの陶酔の裏や、実用的な事柄の管理に結び付いた虚栄の中、あるいは自助や自己実現のダイナミックスへの魅了の中に、同じ霊的世俗性が隠れています。同様に、さまざまな形に読み替えられ、多くの外出やミーティング、夕食会、会食だらけの濃い生活のうちに自分の出番を持ちます。あるいは統計や計画、評価でいっぱいの、会社で見られるような役職主義に傾倒します。そこでは一番利益を得るのは神の民ではなく、組織としての教会になります。こうしたあらゆるケースにおいては、受肉し十字架にかけられ復活したキリストの刻印を運ぶことはなく、エリートグループに閉じこもり、失われた人々をも、キリストに乾いている計り知れないほど大勢の人々を本当に探しに行くこともありません。そこにはもはや福音的熱意はなく、自己中心的な自己満足の、本流から外れた愉しみがあるのみです。

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