2014年3月25日火曜日

117 第三章 福音の告知>I.神の民全体が福音を告げる>多くの顔ぶれの集まった一つの民



117.よく理解されたうえでは、文化的多様性は教会の一致を脅かすことはありません。聖霊こそが、父と子とより送られて、わたしたちの心を作り変え、すべてがその一致のうちに見出される三位一体の完璧なコムニオン(聖体的一致)に入ることができるようにしてくれる方なのです。聖霊は神の民のコムニオンと調和とを作り上げます。同じ聖霊は父と子の間にある愛の絆であるのと同様、調和そのものなのです[93]。聖霊こそが、多岐多様の賜物の豊かさを引き起こし、同時に決して画一性ではなく他を引き寄せる多様性に満ちた調和である一致を作り上げるのです。福音化は喜びつつこの聖霊が教会に生み出す多様な豊かさを認めます。単一文化で単調なキリスト教について考えることは、受肉の論理の納得のいくところではありません。たとえいくつかの文化は福音の宣伝とキリスト教の一つの考えの発展に直接つながっているにしても、啓示されたメッセージはその土の文化とも同一視されることはなく、文化を超えた内容を持つのです。そのため、新しい文化とキリスト教の宣言を受け入れてこなかった文化の福音化において、どれほど美しく古いものであれ、福音の提案とともに一定の文化形式を押し付けることはあってはならないのです。わたしたちが告げ知らせるメッセージにはいつでも何らかの文化的服がかぶされていますが、しばしば教会の中で自分の文化の虚栄に満ちた神聖化に陥り、そのために本物の福音化の熱意よりも熱狂主義として見られてしまう可能性があるのです。


[93] 聖トマス・アクィナス『神学大全』第一巻第39問第8項第二主文:「両者の接合者である聖霊を除外しては、父と子との間のつながりの一致を理解することはできない」参照。また、同上第一巻第37問第1項異論解答3をも参照。

0 件のコメント:

コメントを投稿