9.よいことは、いつでも伝えられることに傾きます。真理や美の本物の体験はすべて、勝手に拡がっていこうとし、深い解放を体験した人はだれでも、他の人々の必要を前に感受性をより強く持つようになります。よいことというのは、伝えながら根を張り、発展していきます。だから、尊厳と完全に満たされた状態を伴って生きたいと望む人は誰でも、他者を認め、その相手の善を求めること以外には道がないのです。そういうわけで聖パウロのいくつかの表現に驚いてはいられません。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」(IIコリ5章14節);「やっていられない、もし福音を告げていないなら!」(Iコリ9章16節)。
2013年11月26日(火)、ローマ時間の昼前に 教皇フランシスコによる最初の使徒的勧告が出ました。 『Evangelii Gaudium(福音の喜び)』です。 ちなみに、オリジナルはパパ自らがスペイン語で書いたそうです。 中央協議会の訳が出るまで、しばしの間、 時間の許す限りぼちぼちゆるーくアップして行く予定です。 拙訳ですがお楽しみください。
2013年11月30日土曜日
2013年11月29日金曜日
8 導入>I. 新たにされ、伝えられる喜び
8.ただただ幸せな友情となる神の愛との出会い-あるいは再会-のおかげでのみ、わたしたちは自分の孤立した意識や自分のことばかりについて語る傾向から救いだされるのです。わたしたちは人間的であることを越えている時、つまり自分のより本当の存在へと到達するために、自分自身より向こうへと神さまがわたしたちを連れゆくことを受け入れる時にこそ、完全に人間的になることができるのです。そこに福音宣教をしていく働きの泉があるのです。なぜなら、もし誰かが、生きる意味を取り戻してくれるその愛を受け入れたなら、それを他の人々に伝えたいという望みを抱えたままで、どうしてじっとしていられるでしょう?じっとしていられるわけがないのです。
7 導入>I. 新たにされ、伝えられる喜び
7.誘惑はしばしば、まるで喜びが可能になるためには数えきれないほどの条件が果たさなければならないかのように、いいわけや権利主張の形を取ります。これが起こるのはふつう「技術社会は快楽の機会を増やすことには成功したけれど、喜びを生み出すのがとても難しいと気づいている」[2]からです。わたしの人生の歳月で見たもっとも美しく自然な歓喜は、しがみつくものがほとんどないとても貧しい人々の歓喜であるということができます。また専門的 で大変な献身のさなかでも、信者の心、とらわれずつつましやかな心を保つすべを知っていた人々のほんものの喜びをも思い出します。様々な仕方で、その喜びはイエス・キリストにおいてわたしたちに示された、神の常に何よりも大いなる愛の泉において水を飲むのです。わたしは、福音の中心へとわたしたちを導くベ ネディクト十六世のあの言葉を飽きずに繰り返します。「人をキリスト信者にするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」[3]。
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