2014年3月25日火曜日

120 第三章 福音の告知>I.神の民全体が福音を告げる>わたしたちはだれもが宣教する弟子



120.受けた洗礼の功徳において、神の民のメンバーひとりひとりが宣教する弟子になりました(マタイ2819節参照)。洗礼を受けた一人一人は、その教会での役割や信仰の様相のレベルがいかなるものであれ、福音化の要員なのです。ですから認められた役者によって推し進められていくけれど信者の民の残りがただその働きの受け身に回るような福音化の枠組みを考えるのはふさわしくありません。新しい福音化は洗礼を受けた一人一人の主人公としての新しい在り方を意味しなければなりません。この確信は、誰も福音化への献身を後回しにしないようにと、キリスト者一人一人に向けられた呼びかけとなっています。つまり誰かが本当に自分を救う神の愛の体験をしたなら、これを告げに出ていくためにそれほど多くの準備期間は必要ないのです。その人に多くの研修会や長い教示をするのを待っているわけにはいかないのです。キリスト者は全員、キリスト・イエスにおいて神の愛に出会ったそのはかりにおいて宣教師なのです。もはやわたしたちは「弟子」であり『宣教師』であるとは言わず、わたしたちはいつも「宣教する弟子」だと言います。もし納得がいかないなら、最初の弟子たちに目を向けましょう。彼らはイエスのまなざしを知った後すぐに、喜びにあふれてこのことを告げ知らせに出かけていったものです。「わたしたちはメシアに出会った!」(ヨハネ141節)と。サマリアの女性は、イエスとの対話を終えて出ていくや否や、宣教女となり、「女性の言葉によって」(ヨハ439節)多くのサマリア人がイエスを信じたものです。また聖パウロも、イエス・キリストとの出会いから、「すぐさまイエスは神の子であったと告げ知らせ始めた」(使徒920節)のです。わたしたちは何を待っているのですか?

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