2014年3月12日水曜日

91 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>イエス・キリストを生み出す新しい関係への「はいという答え」



91.解決というのは、同時にわたしたちを他者への献身に結び付ける神との個人的で献身的なかかわりから逃げることには決してならないということを示すことは重要な挑戦です。それこそが今日、信者が他者を差し置いて隠れ、自分を除外しようとするとき、また深く確かな絆のないまま、ずる賢くあちこちを転々とし、あるいはある仕事から他の仕事へと移るとき生じることなのです。《Imaginatio locorum et mutatio multos[68]。それは心と、時には体まで蝕む偽りの薬なのです。唯一の道は、内側の抵抗なく、歩みの同伴者として他社の価値を認め他者を受け入れるというふさわしい態度をもって他の人々と出会うことを学ぶことにあることを認識する手助けが足りていないのです。さらによりよいものとして、他の人々の顔やその声、その訴えの数々の中にイエスを見出すことを学ぶことが問われます。そして不当な暴力、あるいは不愉快なことをされた時、兄弟愛を選ぶことに決して疲れてしまわずに、十字架にかけられたキリストと共にある御腕の中で苦しむことを学ぶことでもあります[69]


[68] トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』第一巻95項:「変化が起こればとか、別の場所にいけば幸せになれるという夢は、 多くの人を惑わして来ました」。
[69]内なる経験が決定的なインパクトを持った、具体的に不愉快な感覚を生じさせたあのシスターとの付き合い方に見られるリジュの聖テレジアの証しは役に立つ。「ある冬の午後のことです。わたしはいつものように、サン・ピエールシスターと甘美なる務めを果たしていました。寒く、夜が訪れてきました…。突然、遠くから楽器のハーモニーに満ちた音が聞こえてきました。そこでわたしは良く照らされ、豊かな金ですべてが輝く広間、エレガントに着こなした、互いに世俗的な挨拶や社交辞令を述べ合うお嬢さんたちのことを想像しました。そのあとで、わたしが支えていたかわいそうな病気の姉妹にまなざしを移しました。メロディの代わりにしばしばその憐れなうめきが聞こえていました。[…]わたしは自分の魂に起こったことについて表現することができません。ただ一つ知っているのは、主がわたしの幸せがあるとは思えない、地上の祭りを、真理の公選で照らしてくれたことです」(リジュの聖テレジア『手記』C, 29 vº-30 rº, 『全集』, Paris 1992, 274-275)

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