2014年3月10日月曜日

81 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>利己的な無感動に対する「いいえという返事」



81.世に塩と光をもたらす宣教のダイナミズムをわたしたちがもっとも必要とするとき、信者の多くは誰かが何らかの使徒的務めを実現するようにと招くことに恐れを感じ、自分の自由時間を奪われるような約束はどんなものでも避けようとします。たとえば、今日、小教区のために準備ができ能力があり、何年もその務めを続けるような要理担当者(カテキスタ)を得ることはとても難しくなっています。けれど、これは司祭たちにも似たようなことが起こっています。自分の時間を得ることに躍起になっている司祭たちがいるのです。これはしばしば人が、まるで福音化の務めが危険な毒でありわたしたちを宣教へと呼び出しわたしたちを満たされた者、実りをもたらす能力のある者とする神の愛への喜ばしい応答ではないかのように、自分の自律できるスペースを横柄に保つ必要に駆られているということに由来しています。宣教の味わいを体験することにとことんまで抵抗し、何も動かなくする無感動に埋もれたままでいる人もいるのです。

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