2014年3月12日水曜日

90 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>イエス・キリストを生み出す新しい関係への「はいという答え」



90.大衆の宗教性の独自の形は受肉したものです。なぜならそれは大衆の文化にあるキリスト教信仰の受肉から芽生えたものだからです。まさにそのため、調和をもたらすエネルギーのようなものではなく神、イエス・キリスト、マリア、聖人といった人との人格的かかわりを含むのです。そこには肉体があり、顔があります。それははかない個人主義的なものというよりも、関係のもたらす可能性を培うのにぴったりのものです。わたしたちの社会の別のところでは、内在主義の内側の探求に狭める、共同体のない「いい暮らしの霊性」の様々な形態や、兄弟愛に基づく献身のない「順境の神学」、あるいは顔のない主観的経験への礼賛が育っています。

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