2014年3月10日月曜日

79 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>宣教的霊性の挑戦への「はいという返事」



79.メディアの文化や知的環境のいくつかは、しばしば教会のメッセージに対するはっきりとした不信感やある種の嫌悪を伝えています。その結果として、たとえ祈っていたとしても、多くの司牧の要人には、自分のキリスト者としてのアイデンティティやその核心を相対化したり隠したりするに至るある種の劣等意識が強くなってきています。その宣教の使命を受けた喜びを、他の人と同じにならなければならないとか、他の人が持っているものを持たなければならない、というある種の強迫観念の中におぼれさせています。そこで中毒的な循環が生まれます。なぜならそうやって自分の在り方や行っていることで幸せでないために、自分の福音化の使命を自らのアイデンティティとは感じることができず、そのために献身が弱まってしまうからです。そうして、福音化の務めは無理矢理、嫌々ながら行うような感じを装うようになり、そのための努力も少なくなり、捧げる時間もとても限られたものとなるのです。

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