2014年3月11日火曜日

86 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>不毛な悲観主義に対する「いいえという返事」



86.ある場所では、神のない社会を作る、あるいはキリスト教的根を絶やす社会を作ろうとする計画の実りとして、霊的「砂漠化」が生じたのは確かです。そこでは「キリスト教世界は不毛になっており、搾取の超過で土地が枯渇し砂となっています」[66]。ほかの国では、キリスト教への暴力的抵抗が自分の愛する国でキリスト者がほぼ隠れてその信仰を生きることを強いられています。これは砂漠のとても痛々しい別の形です。また家庭そのものや職場自体が信仰を保ちなんとかしてこれを輝かせようとしなければならないその荒んだ環境となっていることもあります。けれど「わたしたちはまさにこの荒れ野から、空白から出発することによって、あらためて信じることの喜びを再発見することができます。わたしたち人間にとって信じることが何よりも重要であることを再発見することができます。わたしたちは、荒れ野の中で生きるためになくてはならないものの価値を再発見します。それゆえ、それがしばしば暗黙のうちに、消極的な形で示されているとしても、現代世界の中には神への渇き、人生の究極的な意味への渇きを表す多くのしるしがあります。そして、荒れ野においては何よりも信仰の人が必要です。信仰の人は、自らの生き方によって約束の地に向かう道を示し、希望を生き生きと保つからです」[67]。いずれにせよ、そこで他の人々に水を飲ませることのできる人でありツボであるような存在になるよう、わたしたちは呼ばれているのです。時にはツボは重い十字架になるかもしれませんが、十字架こそまさに、貫かれて、主が生きた水の泉としてご自身をささげられたところなのです。わたしたちから希望が奪われないようにしましょう!


[66] J. H. ニューマン、『ジョン・ヘンリー・ニューマンの手紙と日記Ⅲ』1833年㋀26日の手紙, Oxford 1979, 204.
[67] ベネディクト十六世、信仰年開会ミサ説教20121011日): AAS 104 (2012), 881.

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