2014年3月26日水曜日

129 第三章 福音の告知>I.神の民全体が福音を告げる>人から人へ



129.福音的告知がいつでも一定の覚えた定式や、まったく変えようのない内容を表現するぴったりの言葉をもって伝えることでなければならないと考えてはなりません。神の民が、その数えきれないほどの仕草やしるしをもって、集合的な主体である場である形式を見出しあるいはカタログに入れることが不可能なほど実に多様な形式が伝えられるのです。そういうわけで、もし福音がある文化に受肉したのであれば、人から人への告知を通さずにはもはや交流をしないのです。このことから、キリスト教が少数派の国々では、洗礼を受けた一人一人が福音を告げ知らせるようにと促すことに加えて、地方諸教会が、少なくともはしりだけでも、文化内開花の諸形式を活発に促進させるべきであることを考えざるを得ません。求めなければならないのは、決定的には、告知された場である文化の独自のカテゴリーをもって表現された福音の伝道がその文化との新しい答え(止揚)を引き起こすようにということです。こうした過程がいつも遅いにしても、しばしば恐れがわたしたちをあまりに中風のように動けなくするのです。もし疑いや恐れがあらゆる勇気を窒息させるがままにするならば、創造的である場所で、単にわたしたちが居心地よくとどまり、何らの前進も目覚めさせないようになることもあり得るのです。その場合、わたしたちは自分の協力をもっての歴史的過程の一部であることはなく、単に教会の実りをもたらさない行き詰まりの傍観者になるでしょう。

2014年3月25日火曜日

128 第三章 福音の告知>I.神の民全体が福音を告げる>人から人へ



128.この常に敬意に満ち優しい伝道において、最初の時というのは個人的な対話の時で、そこでは他の人が自分のことを表現しその喜びや希望、自分の大切な人々のことで気になることや、心を満たす多くの物事について分かち合う場面です。この会話の後でしか、何か聖書の一説の朗読にせよ、語りの形であれ、み言葉を紹介することはできないのです。けれどいつも根本的な告知のことが思い出されるべきです。つまり、人となられ、わたしたちのために渡され、その救いとその友情をささげつつ生きている神の人格的な愛です。それはいつも学ぶことを知っている人が、そのメッセージはいつでもわたしたちを超えるものであるほどに豊かで深いのだという意識をもった人の謙虚で証しに向かう態度をもって分かち合われる告知です。時にはより直接的な仕方で表現されます。ほかには個人的な証や物語、ある仕草、具体的な状況の中で聖霊自身が引き起こすことのできるような形などを通して表現されることもあります。もし慎重に見え、条件が与えられるなら、この兄弟愛に満ち宣教的な出会いが、その人が示してくれた気になっていることに関係した短い祈りで終わるとよいです。そのようにして、自分のことが聞いてもらえ、自分の状況が神の現存の中に残るようにと解釈されたことをよりよく感じ取り、神の言葉は本当に自分の独自の存在に語り掛けるのだということを認識するでしょう。

127 第三章 福音の告知>I.神の民全体が福音を告げる>人から人へ



127.教会が深い宣教的刷新を体験しようと望んでいる今日、日々の務めとしてわたしたちすべてに携わる伝道の一つの形があります。つまり、福音をそれぞれが相手にしている人々に、最も近しい人にも知らない人にも運ぶことが扱われます。これは会話の間に実現されうる非公式の伝道です。そして宣教者が家庭訪問をするときに実現することもそうです。弟子であるということはイエスの愛を他の人々に運ぶ継続的な心構えを持つことです。そしてそれは自然にどこでも産み出されるものです。道端でも、公園でも、仕事場でも、道路でもです。