2014年3月10日月曜日

84 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>不毛な悲観主義に対する「いいえという返事」



84.福音の喜びは誰も何物もわたしたちから奪い去ることのできないものです(ヨハネ1622節)。わたしたちの世にある諸悪 そして教会にある諸悪 は、わたしたちの献げとわたしたちの熱意を弱めることの言い訳になっていいはずがありません。これを成長するための挑戦として見ましょう。しかも、信仰に満ちたまなざしは、「罪の満ちたところに恵みがさらに満ち溢れた」(ロマ520節)ことを忘れずに、暗闇のさなかで聖霊がいつも注いでいる光を認識することができるのです。わたしたちの信仰は水がワインに代わることのできたそのワインをぼんやりと見せ、毒麦のただなかで育つ麦を見出すようにとの挑戦を受けています。第二バチカン公会議から50年たって、わたしたちのいる現代の悲惨な出来事が胸を痛め、本当の楽観主義からほど遠いにしても、よりはっきりした現実のとらえ方が聖霊への信頼の小ささや寛大さの少なさを意味するようであってはなりません。この意味で、19621011日のあの賞賛に値する一日に発せられた福者ヨハネ二十三世の言葉を改めて聞くことができます。「たびたび私の耳に届いて不愉快に思うことがあります。それは信仰の熱心に燃えていながら、公平な判断と賢明な思慮を欠いた人々の遠回しな言葉であります。これらの言葉は、 人類社会の現状を見ては破壊と災難しか見ることが出来ずにいます[…]こうした、あたかも世の終りが近づいたかのように、つねに災いしか予告しない不運の預言者にわたしたちが意見をたがえるのはふさわしいことでしょう。この今という歴史的瞬間に、摂理はわたしたちを新しい人間関係の秩序へと導いています。それは、人間の働き自らにもよるのですが、むしろ、その以降そのものをずっと超えて、より偉大で予期せぬ計画の実現へと歩みを進めているのです。つまりすべては、人間的な逆境すら、教会のより大いなる善に向かって準備をしているのです」[1]


[1] 第二バチカンエキュメニカル公会議の開会式演説(19621011日), 4, 2-4: AAS 54 (1962), 789.

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