2014年4月30日水曜日

166 IV.ケリュグマを深めるための福音宣教>ケリュグマ(使信)的で秘儀伝授的なカテケージス(要理)



166.要理のもう一つの特徴は、この最近の数十年の間に発展してきたものですが、《秘儀伝授的な》導入部という面です[128]、それは基本的に二つのことを意味しています。それは、全共同体の介入する養成に携わる体験の求められている発展性と、キリスト教のイニシエーションの典礼的なさまざまなしるしの刷新した価値評価です。多くのマニュアルや計画は、それぞれの教育的共同体の識別にのっとってとても多様な形をとりうる、秘儀伝授的な刷新の必要性によってまだ問いただされずにいます。要理に関係するような集いは、み言葉の宣告であり、み言葉にその中心を置きます。けれど、いつもふさわしい環境づくり、魅力的な動機付け、雄弁なシンボルの使用、広い成長のプロセスへのその挿入、そして傾聴と応答の共同体的な歩みにおけるペルソナの諸次元すべての統合を必要としています。


[128] 提言 38参照.

165 IV.ケリュグマを深めるための福音宣教>ケリュグマ(使信)的で秘儀伝授的なカテケージス(要理)



165.要理において《ケリュグマ(使信)》がより「しっかりした」と期待される養成の後で見捨てられてしまったと考えてはなりません。その宣告よりもしっかりとしており、より深く、より確かで、より濃く、より賢いものなどありません。キリスト者の養成はすべて、なによりもまず、ますますよりおおくよりよく肉としていき、要理の務めを決して照らさずにはおかず、要理において展開されるどのようなテーマの意義をもふさわしく理解させる、ケリュグマの深化に他なりません。それは人の心のすべてのうちにある無限の願望に答える宣告です。ケリュグマの中心性は今日どこでも必要とされている宣告のある種の特徴を要求します。それは道徳的、また宗教的義務に先立つ神の救いに関わる愛を表現するようなものであり、真理を押し付けることはなく、自由を明らかにし、福音的というよりはしばしば哲学的な、ほんの少しの教義の伝道に狭められることのない調和に満ちた喜び、価値評価、活力、統合性を特徴とするようなものです。このことは、福音宣教者が、宣告をよりよく受け入れるのを助けるいくつかの胎動を強要します。親近感、対話への開き、忍耐、判決を下すことのない心のこもった歓迎です。

164 IV.ケリュグマを深めるための福音宣教>ケリュグマ(使信)的で秘儀伝授的なカテケージス(要理)



164.わたしたちは、要理においても福音宣教活動と教会の刷新のあらゆる試みの中心を占めるべきである『最初の宣言』、もしくは《ケリュグマ(使信)》が基礎的な役割を持っていることを再発見してきました。ケリュグマは三位一体的です。それは舌の形で自らを与える聖霊の炎であり、わたしたちがイエス・キリストを信じるようにし、その死と復活をもってわたしたちに御父の無限の憐みを啓示し伝達するものです。要理担当者の口の中でいつも最初の宣言である「イエスさまはあなたのことを愛していて、あなたを救うために命をささげ、今、生きていて毎日あなたの隣にいて、あなたを照らし、あなたを力づけ、あなたを解放していますよ」という内容が改めて響きます。この最初の宣告を「最初の」と呼ぶときに、それは最初の時にあってその後で忘れられる、あるいはそれを超える後から来た内容によってとってかわられる、という意味ではありません。それは質の意味での最初なのです。というのは、〈根本的な〉宣告だからです。それはいつもさまざまな仕方で聞き直さなければならないものですし、それは要理教育の長きにわたり、それぞれの段階と瞬間すべてにおいて、あれこれの仕方で何度も伝え直さなければならないものだからです[126]。そのため、「司祭」も「教会と同様に、つねに自分自身が福音化される必要があるということを意識しながら、成長しなければなりません」[127]


[126] 提言 9参照.
[127] ヨハネ・パウロ二世、シノドス後使徒的勧告『現代の司祭養成』(1992325日)、26: AAS 84 (1992), 698.