2014年3月10日月曜日

82 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>利己的な無感動に対する「いいえという返事」



82.問題なのは必ずしもいつも活動の過剰にあるわけではなく、何よりもふさわしい動機もなく、行動を生み出しそれを望ましいものとするような霊性もない悪く体験された活動にあるのです。そこから、想定していた以上に務めが疲れをもたらし、時には病気になったりもするのです。これは幸福感に満ちた疲れではなく、緊張した、重苦しく、不服で、つまりは、受け入れられない疲れのことを言っています。この司牧における無感動(の大罪)には、多様な原因があり得ます。実現不可能なプロジェクトを保ちよい仕方で行いうることをやる気をもって生きることがないためにこれに陥る人もいます。ある人には、プロセスの変遷に費やすものが多いことを受け入れられずすべてのものが天下りであってほしいと望むことが原因です。ある人には、自分の虚栄で思い描いていたいくつかの成功のプロジェクトや夢に固執することが原因です。ある人には、民との実際のコンタクトを失い、司牧の非人格化が行われ、人そのものよりも組織に意識が多くむけられるために、道路そのものよりも〔道路地図〕により熱意を注ぐことになることが原因です。待つことを知らず生活のリズムを自分で支配したがることで無感動に陥る人もいます。この現代という時代の欲張りな即席主義が、司牧の要人がある種の矛盾や表面的な失敗、批判、十字架を意味するようなことを簡単に耐えることができないようにしているのです。

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