2013年12月19日木曜日

59 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>不平等は暴力を生み出す



不平等は暴力を生み出す

59.今日、多くの場所でより安全になることが強く求められています。けれど社会の中、また異なる国々の間で疎外と不平等に方向転換がなされない限り、暴力を根絶することは不可能でしょう。貧しい人たちや貧しい国々が暴力のかどで糾弾されていますが、機会均等がなければ、様々な形での侵略や戦争は遅かれ早かれ爆発を引き起こすであろう温床を見出すでしょう。地方社会、国という社会、世界規模の社会とありますがそうした社会が自分自身の一部を郊外に身捨てる時には、聖司プログラムも、落ち着きを無期限に確証できるような政治的資源も知的資源もないでしょう。このことは、不平等がシステムから排除されている人々の暴力的反応を呼び覚ますからということだけではなく、社会と経済のシステムがその根において不正であるということからも生じるのです。善がコミュニケーションへと傾くように、不正と呼ばれる、同意のもとにある悪には、その害を及ぼす力を拡げ、どんなにしっかりしていると見えても、どのような政治的社会的システムであれその基盤を、静かに覆すようにという傾向があります。 もし活動の一つ一つに結果があるならば、ある社会構造において嚢胞となった悪には、いつも分解と死の力があります。不正な社会構造において透明になった悪です。それは、よりよい未来を望めずにいるところに端を発するものです。わたしたちは、いわゆる「歴史の終わり」と呼ばれるものから遠く離れています。というのは持続可能で平和裏でもある発展の条件は、まだふさわしく計画されてもおらず、実現されてもいないからです。

58 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>奉仕する代わりに統治する金に対して否を



58.倫理を無視しないような財政改革には政治的指導者たちの側からの精力的な態度の変化が必要不可欠でしょう。政治的指導者たちには、決定的に、未来の展望を持って、当然のことながらそれぞれの文脈の特質を無視することなく、この挑戦に立ち向かうようにと勧告します。金銭は仕えなければならず、金銭が統治することがあってはならないのです! パパはすべての人々を愛しています。金持ちも、貧しい人も。けれどキリストの名において、金持ちは貧しい人たちを助け、彼らを尊重し、彼らの居場所を推進しなければならないのだということを思い出させる義務があるのです。無私の連帯と、経済と財政の人間存在を支持する倫理への転換をするようにとわたしは皆さんに勧告します。

57 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>奉仕する代わりに統治する金に対して否を



奉仕する代わりに統治する金に否を

57.この態度の裏には倫理の拒絶と神の拒絶とが隠されています。倫理はしばしばあざけりに満ちたある種の軽蔑の眼差しを持って見られます。それは、逆効果、あまりに人間的であると捉えられています。なぜなら金銭と権力を相対化するからです。このことを脅威として感じています。というのも操作と人の堕落を断罪するからです。要するに、倫理は市場のカテゴリーの外にある献身的な応えを待つ神へと導くのです。このために、もしそれが絶対化されているならば、神はコントロールできず、操作できず、さらには危険です。それは、人間をそのまったき実現とあらゆるタイプの奴隷状態からの独立へと呼びかけるからです。倫理は―― イデオロギー化されていない倫理は――より人間的な社会バランスと社会秩序を作ることができるようにします。この意味でわたしは、国々の財政の専門家たちと政府の人々が、昔の知恵者の次のような言葉を熟慮するように、と鼓舞します。「自分の財産を貧しい人たちと分かち合わないことは、彼らから盗むことであり、彼らの命を奪うことであります。わたしたちが持っている財産はわたしたちのものではなく、彼らのものなのです」[55]


[55] 聖ヨハネ・クリゾストモ『ラザロの説教』II, 6: PG 48, 992D.

56 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>金銭という新しい偶像に否を



56.わずかな人々の収入が指数関数的に増えていく一方、ほとんどの人の収入はますますその幸せな少数の人々のよい暮らしからは程遠い所に残されています。このアンバランスは財政市場と財政投機の絶対的自律を守ろうとするイデオロギーからきています。そこから、共通善のために監視をする担当である、国の抑制の権利を否定するようなことになるのです。その法律と決まりを、一方的で容赦ない仕方で課す、しばしば仮想の、目に見えない新たなる専制が確立されます。しかも、債務とその利息は国々を経済的な実行可能な可能性から引き離し、その市民を実質の購買力から遠ざけるのです。これらすべてに、世界的次元を仮定する、分岐された汚職と利己的な脱税が加わります。権力と所持の渇望は限界を知りません。このシステムにあっては、利潤を増加させるためにすべてを巻き込む傾向にあり、環境などのように、脆弱なものなら何でも、絶対的なルールとなってしまった、神格化された市場の関心を前に無防備になっているのです。

2013年12月13日金曜日

55 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>金銭という新しい偶像に否を

55.この状況の原因のひとつは、わたしたちが金銭との間に作り上げてきた関係のうちに見出されます。もはやわたしたちと、この社会の上に立つ支配力を平和裏に受け止めています。わたしたちが通る経済危機は、その起源には深い文化人類学的危機があることを忘れさせます。それは人間存在の優先性の否定です!わたしたちは新しい偶像をいくつも作って来ました。古代における金の牛への礼拝は(出321-35節参照)、新しく、金銭へのフェティシズム(偏愛)とほんものの人間的な顔つきや目的性のない経済の専制における非情なバージョンに見受けられます。世界危機は、財政や経済に影響を及ぼすものですが、その不安定感、特に、人間存在をその必要性のうちのたった一つの局面、つまり消費に狭める、その文化人類学的指導の重大な欠如を表しています。

54 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>疎外の経済に否を



54.この文脈で、まだ「トリクルダウン(訳者注、Wikipediaより『富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透=トリクルダウンする』とする経済理論または経済思想)」の理論を守ろうとする人がまだいます。これは自由経済によって有利となる経済成長すべてが、自ずと世界における社会の公平と招き入れを呼び覚ますことができるようになる、という理論です。この意見は、実践によって確認されたこともなく、経済力をもつ人々の善意、そして支配的な経済システムの聖化されたメカニズムへの粗野で未処理の信頼を表現しています。一方で、除外された人々は、待ち続けているのです。他の人々を除外する生き方を保つことができ、その利己的理想をもって期待をもたせることができるために、無関心のグローバル化が発展してきました。ほとんど警鐘を鳴らすこともなく、わたしたちは他の人々の叫びを前に同情することもできなくなり、もはや、まるですべてが自分たちとは関係のない他者の責任であるかのように、他の人々の悲劇を前に泣くこともなく、彼らの世話をすることに関心も示さなくなっています。いい生活に留まる文化は、わたしたちを麻痺させ、まだ買っていないものを市場が提供すると落ち着かなくなる一方、他のそうした命は可能性の不足のために滞ったままでいる、そうしたことがわたしたちには、わたしたちを全然変えることのないただのショーであるかのように見えるのです。