2014年3月10日月曜日

83 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>利己的な無感動に対する「いいえという返事」



83.このように、より大きな脅しが生まれます。これは「教会の日々の生活における灰色の実用主義なのです。そこで表面的にはすべてが普通に帰結していくように見えるけれど、実際は信仰が無駄に浪費され狭量のうちに退廃していくのです」[63]。少しずつキリスト者を博物館のミイラにしていく、墓の心理学が繰り広げられます。現実や教会自体、または自分自身に対して幻滅した人は、「悪魔の妙薬で最も重宝がられた者」として心を支配する、希望のない、甘ったるい悲しみのとりこになるたゆまぬ誘惑を体験します[64]。照らし、いのちを与えるようにと呼ばれた人が、最終的にただ内なる闇と疲れを生み出すものごとに囚われてしまい、使徒的ダイナミズムが蝕まれてしまうのです。これらすべてのために、わたしは繰り返し訴えかけます。福音化の喜びを奪われないようにしましょう!


[63] J.ラッツィンガー、『信仰と神学の現状』メキシコのグアダラハラで1996年に開催された教理省のためのラテン・アメリカ司教委員長たちの集いで発せられたカンファレンス、L’Osservatore Romano1996111日号掲載。第五回総会ラテンアメリカとカリブ司教評議会総会『アパレシーダ文書』12参照。
[64] G.ベルナーノ『ある野戦場の司祭の一日』パリ1974年、135頁。

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