2014年3月24日月曜日

94 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>霊的な世俗性への「いいえという答え」



94.この世俗性は特に深く婚姻関係ほどに密接なかかわりを持った二つの方法で培われることがあります。一つは、グノーシス的なことへの陶酔です。主体主義に閉じこもった進行で、ある種の体験のみに関心がある、あるいは慰めたり照らしたりということが想定されているけれど決定的には主体は自分自身の理性や感情に内在的に閉じこもるような、ある種の理性化や知識のみに関心があるような信仰の形です。もうひとつのものは、自己保証的でプロメテウス的な心ペラギウス主義です。これは心底では結局自分自身の力に信頼し、一定の決まりを果たすことや過去の自分のカトリックのある種のスタイルに不動なほどに忠実であることで他の人々よりも自分が上位にあると感じる人にあるものです。これは想定上の教義的あるいは規律的安定のことです。これはナルシス的あるいは権威的なエリート主義に場を譲り、福音化をする代わりにしていることは、他の人のことを分析したり仕分けをしたりすることで、恵みへのアクセスを助ける代わりに、エネルギーをコントロールするために費やす人々のことです。この二つのケースにおいては、イエス・キリストのことも、他の人々のことも、本当に関心の対象にはなっていません。これらは人間中心的な内在主義の表明です。こうしたキリスト教の徳をゆがめた形からほんものの福音化のダイナミズムが芽生える可能性を想像することはできません。

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