2014年3月24日月曜日

93 第二章、共同体的献身の危機にあって>II. 司牧の要人に訪れる誘惑>霊的な世俗性への「いいえという答え」



93.霊的な世俗性というのは、教会への愛までをも含め、宗教性の見せかけの裏に隠れているものですが、これは、主の栄光を探し求める代わりに、人間的な栄光と個人的な生活の安定を探し求めることにあります。これは主がファリサイ派の人々にしかりつけていることです。「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」(ヨハネ5章44節)と。それは「イエス・キリストのことではなく、自分のことを」(フィリ2章21節)追い求める巧妙な方法です。さまざまな形があり、これは人柄によったり、被嚢されている身分によったりします。見せかけに注意深く配慮がいくので、公的な罪には必ずしもつながず、外向きにはすべて正しいように見えます。けれど、もしこれが教会に浸透していくならば、「単純に道徳的な他の世俗性のいかなるものよりも無限に破壊的なものとなるでしょう」[71]


[71] アンリ・デュ・リュバック『Méditation sur l`Église(教会についての黙想)』、パリ、1968年、231

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