2013年12月5日木曜日

40 第一章:教会の宣教的変容>IV. 人間の限界に受肉する使命

40.教会は、宣教する弟子ですが、啓示されたみ言葉を解釈しながら、また真理を理解しながら育たなければなりません。聖書解釈者や神学者たちの務めは、「教会の判断力が熟する」[42]助けとなります。他の仕方でも、他の諸科学はこれを行っています。社会科学について触れると、例えば、ヨハネ・パウロ二世は、教会は「その教導職の使命に努めるのを助ける具体的な指示を引きだすため」[43]の建設的意見に注意を払うと言っています。さらに、教会のふところには、広い自由をもって研究され反省を繰り返される数多くの問いかけがあります。哲学の考え方、神学の考え方、司牧の考え方にもそれぞれ色々な路線の考え方がありますが、もし尊敬と愛のうちに聖霊によってこれらを調和させようとすれば、これも教会を育てることができます。というのはみ言葉の本当に豊かな宝物をよりよくはっきりさせる助けとなるからです。濃淡なくあらゆるものから守ろうとする一枚岩的な協議を夢見る人々には、これは不完全にバラバラな状態に見えるでしょう。けれど現実にはこのバラエティに富んでいる状態が福音の尽きることのない富の様々な局面をよりよく示し、発展させる助けとなるのです[44]


[42] 第二バチカン公会議、神の啓示に関する教義憲章『デイ・ヴェルブム』, 12.
[43] 自発教令『社会科学に対して(ソチアリウム・スキエンチアールム)』199411日): AAS 86 (1994), 209.
[44] 聖トマス・アクィナスは多重性と多様性は「第一の行為者の意向から来ており」、彼は「神の善意を代わりに表明するために、それぞれのものごとに足りなかったものが他のものごとによって穴埋めされる」ことを望んだ、なぜならその善意は「ただ一つの被造物によってふさわしく代表されるということはできないであろうから」と言っている (Summa Theologiae I, q. 47, art. 1)。だからこそわたしたちはその多重的関係においてものごとの多様性を汲み取らなければならないのである (cf. Summa Theologiae I, q. 47, art. 2, ad 1; q. 47, art. 3)。類比的な理由で、互いに耳を傾け合い、現実と福音の部分的な汲み取りにおいて互いに補い合わなければならないのである。

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