2013年12月5日木曜日

47 第一章:教会の宣教的変容>V. 開かれた心を持つ母


47.教会はいつも、父の開かれた家であるように呼ばれています。その開きの具体的なしるしのひとつは、どこに行っても聖堂の扉が開かれてある、ということです。そのようにして、もし誰かが聖霊の促しにしたがおうとして神さまを探して近づいたときに、閉ざされた扉の冷たさに出会わなくなるでしょう。けれども決して閉ざされてはならない別の扉もあります。誰もが何らかの形で教会生活に参加することができます。誰もが共同体の一員になることができます。そうなると諸秘跡の扉もどうでもいい理由で閉ざされるわけにはいかないのです。このことは、何よりもまず「扉」である秘跡、つまり洗礼について扱われる時に言えます。聖体祭儀は、もし秘跡的生活を充分に成しているのであれば、これは完璧な人々のための報酬ではなく、弱い人々のための寛大な薬であり糧なのです[51]。こうした確信はまた、慎重さと大胆さとをもって熟慮するように呼ばれている司牧に結果をもたらします。しばしば、わたしたちは恵みが届きやすくなるようにする人というよりも、恵みをコントロールする人のように振舞ってしまいます。けれど教会は税関ではありません。それぞれ自分の人生を背負った一人ひとりのために場所がある父の家なのです。


[51] 聖アンブロシウス『秘跡について』, IV, 6, 28: PL 16, 464参照: 「いつもわたしの罪をゆるしてくださるために、わたしはいつもこれを受けなければなりません。もし立て続けに罪を犯すならば、いつもを持っていなければならないのです」。/ 同上, IV, 5, 24: PL 16, 463:「マナを食べた人は死にました。この体を食べる人はもろもろの罪のゆるしを得るでしょう」。/ アレクサンドリアのキリロ『ヨハネ福音書注解』IV, 2: PG 73, 584-585:「『わたしは自分のことをよく見つめ、ふさわしくないことを認めました』。そのように語る人々にわたしは言います。いつあなたたちはふさわしくなるのですか?それではいつキリストの前に進み出るのですか?そしてもしあなたたちのもろもろの罪がキリストに近づくのを妨げるというのなら、そして決して失敗することをやめられないのなら――だれがその過ちを気にするのでしょう? と詩篇は言います。――永遠に活き活きとさせる聖化に参加せずにあなたたちは留まるのですか?」

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