2013年12月5日木曜日

44 第一章:教会の宣教的変容>IV. 人間の限界に受肉する使命


44.一方、司牧者にしても、その兄弟たちのために信仰や神の開きへの道において歩みを共にするすべての信者たちにしても、『カトリック教会のカテキズム』があれほどはっきりと教えていることを忘れるわけにはいきません。「行為の責任性(と応答義務)は、無知、不注意、暴力、恐れ、習慣、過激な感情、またその他の心理的ないし社会的要因によって減じられることがありえますし、まったく無くなることさえあります」[49]。ですから、福音の理想の価値を弱めることなく、あわれみと忍耐をもって、日々自らを作り上げていく人々の成長にありうる段階を共に歩まなければならないのです[50]。司祭たちには言っておきますが、告解部屋は拷問部屋であってはならず、できる限り良いことをわたしたちにはできるのだと認めてくださる主のあわれみの場でなければなりません。人間のひどい限界の真っただ中でのほんの小さな一歩が、重大な困難に出くわすことなく日々を過ごしている人の外面的に正しい生活よりも、神にとってはうれしいものになりえるのです。すべての人に、人の欠点や失敗・堕落をはるかに超えて、一人ひとりの中であわれみに満ちて働く神の救いをもたらす愛による、慰めと尊重がもたらされなければなりません。


[49] 1735番。
[50] ヨハネ・パウロ二世、シノドス後使徒的勧告Cf. Juan Pablo II, Exhort. ap. postsinodal Familiaris consortio (22 noviembre 1981), 34: AAS 74 (1982), 123.

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