2013年12月5日木曜日

43 第一章:教会の宣教的変容>IV. 人間の限界に受肉する使命



43.その不断の識別において、教会は福音の確信に直接はつながっていない独自の習慣を認識するに至ることもあります。そのうちのいくつかは長い歴史の間にしっかり根ざしており、今日同じ仕方で解釈されるものではなく、そのメッセージはふさわしく理解されていないことがしばしばです。とても美しいかもしれないけれど、福音の伝達のためには同じように仕えることができなくなっているものがあるのです。それの見直しを恐れないようにしましょう。同様に、教会の決まりや概念で、他の時代にはとても便利だったかもしれないけれどもはやいのちの川床としては同じ教育的力強さをもっていないものもあります。聖トマス・アクィナスは神の民にキリストと使徒たちによって与えられた概念は「とてつもなく少ない」[47]ことを拾い上げています。聖アウグスティヌスを引用しながら、後で教会によって加えられた諸概念が要求される場合には穏やかになされなければならないと忠告しています。それは「信者の生活を重苦しくしないため」であり、「神のあわれみが解放をもたらそうとしている」時に、わたしたちの宗教が奴隷状態になってしまわないためなのです[48]。この忠告は、何世紀も前になされたものですが、ものすごい現実味を帯びています。教会の革新、本当にすべての人に届くことを可能にするその公表(説教)の革新について考える時に考慮に入れておくべき判断基準の一つにしなければならないでしょう。


[47] 『神学大全』I-II, q. 107, art. 4.
[48] 同上.

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