2013年12月5日木曜日

41 第一章:教会の宣教的変容>IV. 人間の限界に受肉する使命



41.同時に、文化の非常に大きく速い変化は、たゆまぬ新しさがあることに気付かせる言語表現においていつものように様々な真理を表現しようとするために継続的な注意を払うことを強く求めています。キリスト者の教義の宝庫では「本質は一つのことですが[]、その表現を定文化する方法というのは別のことなのです」[45]。しばしば、完全にオーソドックスな言い回しを聞くと、信者が日ごろ使っていたり理解したりしている言い回しの影響を受けて、信者たちが耳にすることは、イエス・キリストの本当の福音にどこか応えていません。神や人間についての真理を伝えようとする聖なる意向をもってして、時には本当にはキリスト者的ではない誤った神のイメージや人間の理想を与えてしまいます。そのようにして、わたしたちは定式には忠実なのですが、本質を伝えなくなります。「真理は様々に表現することができます。こうした表現の刷新が、福音のメッセージを、変わることのないそのままの意味で今日の人々に伝えるために必要となる」[46] のだということを覚えていましょう。


[45] ヨハネ二十三世、第二バチカン公会議荘厳開幕式における演説(千九百六十二年1011): AAS 54 (1962), 792: « Est enim aliud ipsum depositum fidei, seu veritates, quae veneranda doctrina nostra continentur, aliud modus, quo eaedem enuntiantur ».「信仰の宝庫にはそれ自体異なるものがある。その真理、つまり我々の尊崇する教義が含有するもの、そしてもう一つ別の様式、すなわちそれを告知するものである。」
[46] ヨハネ・パウロ二世、回勅『キリスト者の一致』(1995525), 19: AAS 87 (1995), 933.

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