2013年12月3日火曜日

24 第一章:教会の宣教的変容>I. 出かけていく教会>プリメーロ(最初)になること、巻き込まれること、共に行くこと、実りを増やすこと、祝うこと



24.出かけていく教会は、プリメーロ(最初)に行き、巻き込まれ、共に行き、実りを増やし、祝う、宣教者である弟子の共同体です。プリメーロ(最初)になる:この新しい言い回しをゆるして下さい。福音を広める共同体は、主が主導権をもっていて、愛において彼らよりプリメーロになってくださったことを体験します(Iヨハネ410節)。そういうわけで、その共同体は恐れることなく、先駆けることや主導権をもつこと、出会いを求めて出ていくこと、遠いところにいる人を探すこと、疎外されている人たちを招くために道の交差点にたどり着くことができるのです。その共同体は父の限りない憐れみとそのほとばしり出る力強さを体験したことの実りであるあわれみを分かち合いたいという疲れ知らずの望みを体験しています。もう少しプリメーロになる大胆さをもちましょう!
結果として、教会は「巻き込まれる」ことができるようになります。イエスは弟子たちの足を洗いました。主は弟子たちに巻き込まれ、弟子たちも他の人たちの前で跪いてその人々の足を洗うようにと、巻き込んでいきます。けれどもその後で弟子たちにこう言います。「もしこのことを実行するならあなたたちは幸せになるんですよ」(ヨハネ1317節)。福音を広める共同体は他の人々の日々の生活に、働きと身ぶりをもって首を突っ込みます。距離を縮め、もし必要であれば蔑まれるほどまでに身をかがめ、人としての生活を受けて立ち、民の中にいるキリストの苦しみに満ちた肉体に触れるのです。福音を広める人々はそのように「羊の香り」を漂わせます。そしてこの人々は福音を広める人々の声に耳を傾けます。
その後で、福音を広める共同体は、「共に行く」心構えをもちます。たとえどんなに厳しくまた長引くものであっても、人類のそのあらゆるプロセスに寄り添って行きます。長い待ち時間と使徒らしい我慢を知っています。福音を広めるには多くの忍耐を必要とします。そして境界線にある人々に対して悪い扱いをするのを避けます。
主の賜物に忠実で、さらには「実りを増やすこと」ができます。福音を広める共同体はいつでも、実りに対してすぐに気づけるように注意を払っています。というのは主がその共同体に多産であってほしいと望んでいるからです。麦を見守り毒麦のせいで平和を失うことがありません。種を蒔く人は、麦の間に毒麦が芽生えるのを見ても、不平をもらすような反応や心配症のような反応はしません。たとえ不完全で中途半端に見えたとしても、み言葉が具体的状況の中に受肉し、新しいいのちの種々の実りをもたらす方法を見出します。弟子はいのち全体をささげ、イエス・キリストの証しとして殉教まで命を賭けることができますが、その夢は敵で満たされることにあるのではなく、み言葉が受け入れられ、み言葉がその解放の力と刷新の力を示すことにあるのです。
最後に、福音を広める歓喜に満ちた共同体はいつでも「祝うこと」ができます。小さな勝利の一つ一つ、福音を広めることにおける前進の一歩一歩を記念し、祝うのです。歓喜に満ちた福音を広める活動は、善を広めていく日々の務めのただ中でささげられる典礼における美になります。典礼の美しさをもって教会は福音を広め、自らにも福音をもたらすのです。それはまた福音を広めていく活動を記念することでもあり、さらに新たな献身にうながす力の泉でもあるのです。

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