2013年12月3日火曜日

32 第一章:教会の宣教的変容>II. 立ち返りつつある司牧>後回しにできない教会の刷新



32.わたしは他の人々に求めていることを生きるようにと呼ばれているので、教皇位の回心についても考えなければなりません。ローマ司教として、イエス・キリストが教皇位に与えようと望んだ意義と福音を広める活動の実際の必要性に対してより忠実となるわたしの奉仕職の実践を導く様々な助言に対して開かれてあるということは、わたしに関わることです。パパ・ヨハネ・パウロ二世は「首位の権限の本質は何も損なわないで、しかもなお、新しい状況に対応できる何らかの形式」を見出すのを手伝ってくれるようにと求めました[35]。その意味ではほとんど前進が見られませんでした。教皇位と普遍教会の中心構造も、司牧的回心への呼びかけに耳を傾ける必要があります。第二バチカン公会議は、古い教父たちの教会との類比の仕方で、司教協議会は「その団体意識が具体的に実現されるよう、今日、多様かつ豊富な手段を講じること」[36]ができると表現しました。けれどこの望みは十全には実現されませんでした。というのも、ある種教義のほんものの権限をも含んだ具体的権限の主体としてこれを受け入れる司教協議会の法規がまだ充分に説明されてきていないからです[37]。助けるというよりも、極端な中央集権化が、教会のいのちとその宣教の躍動力を複雑にしてしまっているのです。


[35] 回勅『キリスト者の一致(一つになるために)』1995525日), 95: AAS 87 (1995), 977-978.
[36] 第二バチカン公会議、教会に関する教義憲章『ルーメン・ジェンチウム』, 23.
[37] ヨハネ・パウロ二世、自発教令『アポストロス・スーオス』1998521日): AAS 90 (1998), 641-658参照

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