198.教会にとって、貧しい人たちのためにあることの選択は、文化的、社会的、政治的、あるいは哲学的範疇以前に、神学的範疇の問題です。神は「その最初の憐れみ」[163]を彼らに賜るのです。この神から来る優先性は、「イエスと同じ気持ち」(フィリピ2章5節)を持つように呼ばれているすべての人の信仰生活の中にその結果を見ます。これにインスピレーションを受けて、教会は「教会の全伝承を証しするキリスト者の愛徳の実践においてその初穂の特別な形」[164]として理解されている〈貧しい人たちのためにあることの選択〉をするのです。この選択は、ベネディクト十六世が教えていたことによれば、「自らの貧しさによってわたしたちを豊かにするために、わたしたちのために貧しくなられたあの神におけるキリスト論的な信仰において言うまでもないことです」[165]。だからこそわたしは貧しい人々のための貧しい教会を望んでいるのです。彼らにはわたしたちに教えるところがたくさんあります。〈Sensus
fidei(信頼の感覚)〉に参与する以上に、自らの痛みにおいて、苦しむキリストを知っているのです。わたしたち全員が彼らによって福音化されることが必要です。新しい福音宣教は、貧しい人々の生き方の救済的な力を認識し、彼らを教会の歩みの中心に据えることへの招きです。彼らのうちにキリストを見出し、彼らの出来事においてわたしたちが声となるようにわたしたちの声を貸し、しかしまた彼らの友となり、彼らに耳を傾け、彼らを理解し、神が彼らを通してわたしたちに伝えようと望んでいる神秘に満ちた知恵を受け入れるようにとわたしたちは呼ばれているのです。
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