2014年6月3日火曜日

193 第四章 福音宣教の社会的側面>II 貧しい人たちの社会的包含>むなしく走らないための福音への忠実さ



193.貧しい人々の叫びに耳を傾ける命令は他人の痛みを前に断腸の思いにはらわたをひねる思いをするときにわたしたちの血となり肉となっています。教会のいのちにおいて力強くこれがこだまするために、憐みに関する神のみことばにある教えをいくつか再読いたしましょう。福音はこう告げています。「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける」(マタイ57節)。使徒聖ヤコブは、他の人々への憐みはわたしたちが神の裁きにおいて勝利に満ちて前に進み出ることができるようにすると教えています。「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれるものとして、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐みは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ21213節)。このテキストにおいて、ヤコブは特別な救いの価値を憐れみにあるとしていた捕囚後のユダヤ教霊性の最も豊かなものの相続人として自らを示しています。「罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう」(ダニエル424節)。これと同じ路線で、知恵文学は施しを欠乏にある人への憐みの具体的な実践として語っています。「慈善の業は、死を遠ざけ、すべての罪を清めます」(トビト129節)。シラ書はこれをさらに視覚的に表現しています。「水が燃え盛る火を消すように、施しの業は、罪を償う」(シラ330節)。同じ集大成は新約聖書において受け入れられて出てきます。「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(Iペトロ48節)。この真理は教会の教父たちのメンタリティに深く染み透り、異教のヘドニズムにある個人主義を前に反文化的かつ預言的抵抗の役割を果たしました。一つの例だけ思い起こしましょう。「火事の危険に見舞われた時に、火消しのために水を捜しに走り回るのと同じように、[…]これと同様に、わたしたちの藁から罪の炎が起こり、そのためにわたしたちが動揺するならば、わたしたちに憐みに満ちた働きをする機会が提供されたならば、発火を沈めることのできる泉がわたしたちに提供されているかのようにこれを捉え、喜びましょう」[160]


[160] 聖アウグスティヌス『要理を受けている未信者について』, I, XIV, 22: PL 40, 327.

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