2014年6月2日月曜日

183 第四章 福音宣教の社会的側面>I.ケリュグマの共同体的社会的反響>社会問題に関する教会の教え



183.そのようなわけで、誰もわたしたちに、宗教を、社会生活や国家生活における影響が一切なく、市民社会の諸機関の健康的なあり方のために心配することもなく、市民に影響を及ぼす出来事について意見することもなく、個々人の秘密の内なる世界に格下げするようにと強要することはできないのです。アシジの聖フランシスコやカルカッタの福者マザー・テレサのメッセージを聖堂に閉じ込め、黙らせようとすることができる人はいるでしょうか? 彼らはそんなことは認めないでしょう。本物の信仰は、決して居心地よくとどまったり個人主義に走るものではありませんが、いつも世界を変革させ、価値観を伝達し、地上でのわたしたちの足跡の後ろに何かより良いものを残す深い望みを含んでいるのです。神がわたしたちに据えてくださったこの素晴らしい惑星をわたしたちは愛しています。そしてそこに住む人類を、そのあらゆるドラマや疲れも、その望みや希望も、その勇気やもろさもすべてひっくるめて、わたしたちは愛しています。地球はわたしたちの共通の家であり、わたしたちは全員兄弟なのです。もし「社会と国家を公正な仕方で秩序付けることは、政治がなすべき中心的な務め」であるならば、教会は「正義のための戦いを傍観していることはできませんし、傍観するべきでもありません」[150]。キリスト者は全員、司牧者たちも、より良い世界の建設を憂慮するように呼ばれています。それについて、教会の社会に関する考えは何よりもまずポジティブ(楽観的)でプロポジティブ(提案的)なので、変革をもたらす行動を扱い、導きます。そしてその意味でイエス・キリストの愛に満ちた心から湧き出る希望のしるしとしてあることをやめないのです。同時に、「(カトリック教会は)教義のレベルにおいても実践のレベルにおいても、社会領域における他の諸教会や教会共同体の豊かな献身に、自らの献身を結びつけ」[151]るのです。


[150] ベネディクト十六世回勅『神は愛』(20051225日), 28: AAS 98 (2006), 239-240.
[151] 聖座顧問『正義と平和』教会の社会教説綱要, 12.

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