2014年6月4日水曜日

199 第四章 福音宣教の社会的側面>II 貧しい人たちの社会的包含>神の民における貧しい人々が優待される場



199.わたしたちの献身は推進と援助の活動やプログラムのみに排他的になされるものではありません。聖霊が動かそうとすることは、活動主義の氾濫ではなく、何よりもまず、「自分自身の一部であるように他者を捉えながら」[166]他の人に払う〈配慮〉のことです。 この愛に満ちた配慮はその人格へのほんとうの心配の始まりであり、そこからわたしはその人の善を効果的に求めるように望むのです。このことは、貧しい人をその独自の良さにおいて、その在り方をもって、その文化とともに、その信仰を生きる生き方をもって公的に評価することを意味します。ほんものの愛はいつも観想的であり、わたしたちが他の人々に、必要性や虚栄からではなく、その身かけをはるかに超えてその人が美しい存在であるからという理由で奉仕することができるようにするものです。「人が他の人に対して無償で有難いということからくる愛から、他の人が何か無償で有難いものを与えるということになる」[167]のです。貧しい人は、愛された時、「高い価値を持つ者として評価されます」[168]。そしてこのことはほんものの貧しい人のためにある選択を、他のどんなイデオロギーや、個人的あるいは政治的な関心に有益となるために貧しい人たちを利用しようとするどのような試みとも性質を異にするものとします。この本物で心のこもった近さからのみ、わたしたちはその解放の歩みにおいてふさわしく彼らと歩みをともにすることができるのです。このことのみが、「貧しい人々が、あらゆるキリスト者共同体を自分たちの家と感じる」ことができるようにするのです。「この姿こそ、神の国の良い便りの、最大で効果的なあかしではないでしょうか?」[169]。より貧しい人たちのための優先的な選択抜きにしては、「最大の愛であるとはいえ福音の告知も、人に理解されず、今日の情報社会が毎日わたしたちに聞かせる言葉の洪水の中でおぼれてしまう危険性があります」[170]


[166] 聖トマス・アクィナス『神学大全』II-II, q. 27, art. 2.
[167] 同上, I-II, q. 110, art. 1.
[168] Ibíd., I-II, q. 26, art. 3
[169] ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『新千年紀の初めに』200116, 50: AAS 93 (2001), 303.
[170] 同上.

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