2014年6月2日月曜日

179 第四章 福音宣教の社会的側面>I.ケリュグマの共同体的社会的反響>信仰宣言と社会献身



179.この救いをもたらす宣告を受け入れることと効果的な兄弟愛との間にある不可分の関係は、そこからその結果をすべて引き出すために一つ一つ考慮し黙想する方がいい聖書のいくつかのテキストに表現されています。それはしばしばわたしたちは慣れ親しんでいて、ほぼ機械的に繰り返しているメッセージですが、自分の生活や自分の共同体に実際の跳ね返りがあることをしっかりと見据えていないものです。兄弟愛と正義の福音を生きることによる驚きや、魅力に囚われること、熱意を失わせるこの習慣化というのはどれほど危険で外に満ちたものでしょう!神のみことばは、兄弟の中にわたしたち一人一人にとっての受肉の永続的な延長があることを教えています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ2540)。わたしたちが他の人々と共にするようなことには超越的次元があります。「あなたがたは、…自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ72)。そしてこれはわたしたちに対する神の憐れみに応えています。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる[…]。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ636-38節)。こうしたテキストが表現していることは、あらゆる道徳的規律の基礎となる二つの重要な掟のうちの一つとして、また神の絶対的に無償の自己譲与への応答における霊的成長の歩みについて識別するための最もはっきりとしたしるしとして、「兄弟に向かって自分自身の殻から出ていくこと」の絶対的な優先性です。まさにそのため、「愛徳の奉仕は、教会の宣教を成り立たせている次元であり、その本質自身の放棄できない表現でもあるのです」[144]。教会がその本性からして宣教者であるように、その本性から隣人への効果的な愛徳、理解し、共にあり、推進させる憐れみも、必然の結果として湧き出ているのです。


[144] ベネディクト十六世自発教令Intima Ecclesiae natura (20121111): AAS 104 (2012), 996.

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