2014年4月11日金曜日

150 第三章 福音の告知>II. 説教の準備>みことばを自分のものとすること



150.イエスはそうした他の人々に非常に厳しく、神のことばを教えていたのにそのことばによって照らされるのを妨げ、「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタ234節)見せかけの教師たちを前にいら立ちを見せます。使徒聖ヤコブはこう勧告していました。「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」(ヤコブ31節)。説教しようとする人は、まずみことばによって感動させられ、み言葉をその具体的な存在の中で血となり肉となるようにする心構えを持たなければなりません。このようにすることで、説教はその「観想したものを他の人々に伝達すること」[117]であるじつに密度が濃く実りをもたらすことのできる活動に基づくことになるのです。このすべてのために、説教の時に語ろうとすることを具体的に準備するよりも前に、まず他の人々に傷をつけることになるであろうそのみ言葉によって傷つけられることを受け入れなければなりません。なぜならそのことばは、生きていて力を発揮し、まるで剣のようで、「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブ412節)のです。このことには司牧的価値があります。またこの時代でも人々は証しする人の話に耳を傾けることを好んでいます。「『真正さ』に飢えて」いて[…]「宣教者は『見えないものを見ることができるかのように』(ヘブ1127節)神を知り、神に親しんでいなければなりません[118]


[117] 聖トマス・アクィナス『神学大全』II-II, q. 188, art. 6.
[118] パウロ六世、使徒的勧告『福音宣教』(1975128日)76: AAS 68 (1976), 68.

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