2014年4月10日木曜日

146 第三章 福音の告知>II. 説教の準備>真理への礼賛



146.聖霊に呼びかけたあとで、第一歩は、説教の基礎であるべき聖書の本文に前意識を集中させます。あるテキストのメッセージがどのようなものであるかを理解しようとしてとどまるとき、《真理への礼賛》を実践するのです[113]。みことばはいつも超越していき、「主人でもなく、支配者でもありません。私たちは単なる保管者、伝達者、しもべに過ぎないのです」[114]。み言葉への謙遜でお驚きに満ちた崇敬は、これを操作してしまうことを避けるための最高の注意と聖なる畏怖をもってこれを学ぶことにとどまりつつ表現します。聖書のテキストを解釈できるには、忍耐、あらゆる煩悩をあきらめること、〈無償〉の時間と関心、献身をささげることが必要になります。落ち着いた注意の他の環境に入るためにわたしたちを支配するようなあらゆる心配事を脇にやらなければなりません。もし早く、簡単で、即席の答えを得ようと求めるならば、聖書のテキストを読もうと時間をささげるのはむなしいものです。だから、説教の準備には愛が求められるのです。人というのは、愛する物事や愛する人にのみ無償の時間をかけ、急かさずにこれを行うのです。そしてここでは〈語ること〉を望んだ神への愛について語られているのです。その愛に端を発して、人は必要なだけ時間をすべてそこにかけるために留まることができるのです。「主よ、お話しください、しもべは聞いております」(サム上3章9節)という弟子の態度をもって。


[113] パウロ六世、使徒的勧告『福音宣教』(1975年12月8日)、78: AAS 68 (1976), 71.
[114] 同上。

0 件のコメント:

コメントを投稿