2014年4月16日水曜日

151 第三章 福音の告知>II. 説教の準備>みことばを自分のものとすること



151.わたしたちには純潔であるようには求められていません。けれど、いつでも成長のさなかにあるようにとは求められています。福音の歩みにおいて育つことの深い願望を体験し、決して腕を下ろさない(努力をあきらめない)ようにと。不可欠なのは、説教者が神が自分を愛しているという確信、イエスが自分を救ってくれたという確信、イエスの愛がいつも決め手の一言になるという確信を持つことです。それほどの美しさを前に、しばしば自分のいのちがイエスに必ずしも完全に栄光を帰していないと感じ、素直にあれほどまでに大きい愛により良く答えたいと望むことでしょう。けれどもし誠実に開かれた心でそのみ言葉を聞くために時間を取らないならば、自分自身のいのちに触れてもらうようにしないならば、これを求め、勧め、動かしなさい。もしそのみことばをもって祈るために一定時間ささげないならば、その人はまさに偽預言者、詐欺師、あるいは中身のないおしゃべりになってしまうでしょう。いずれにせよ、自らの乏しさの認識から、そしてより献身したいという望みをもって、いつもイエス・キリストに捧げることができるでしょう。ちょうどペトロが言っているようにです。「わたしには銀も金もないが、持っているものをあげよう」(使徒36節)。主はわたしたちを、主のことばを伝達する前に、そのことばをしみとおらせる、生きた、自由で創造的な存在として用いることを望んでいます。そのメッセージは本当に、説教者を通っていかなければなりません。けれど、その理性を通るだけではなく、その全存在を主のものとしながらです。聖霊は、みことばに霊感を与えるものですが、「初代教会も今も同じく、聖霊に導かれるままに身をゆだねている福音宣教者のなかで働いておられます。自分では何を言っていいかわからない時に、聖霊は正しい言葉を(その唇に据えて)語らせ」てくださるのです[119]


[119] 同上、75: AAS 68 (1976), 65.

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