2014年4月17日木曜日

158 第三章 福音の告知>II. 説教の準備>教授法的手段



158.すでにパウロ六世が言っていたことですが、信者たちは「説教から多くを期待し、事実得るところが非常にあるはずです。それには、説教がわかりやすく、簡潔にして明瞭、率直にして時機にかなったもので……なければなりません」[125]。簡潔さとは用いられる言葉遣いと関係しています。むなしく語る危険に走らないために、聞いている相手が理解する言葉遣いでなければならないのです。しばしば説教者が自分の研究や特定の環境で学んだ言葉を使うけれど、これに耳を傾ける人々の一般的な言葉遣いの一部をなしていない、ということが生じています。神学や要理独自のことばと言うのがあり、その意味と言うのはキリスト者のほとんどにとって理解しやすいものではありません。説教者にとっての一番の危険は、自分が使っている独自の言葉遣いに慣れ親しみすぎて、他の人たちもこれを使っていて、自然に理解できると思ってしまうことにあります。もしみことばをもって他の人々の心に近づこうとしてその人々の言葉遣いを受け入れようと望むなら、たくさん耳を使わなければなりません。人々と生活をたくさん分かち合い、快く彼らに意識を向けなければならないのです。簡潔さと明瞭さは、二つの別のことです。言葉遣いはとても簡潔であっても、説教の内容があまりはっきりしないということはあり得ます。無秩序のため、論理不足のため、あるいは同じときに色々なテーマを盛り込みすぎたばかりに理解不可能なものになってしまうこともあり得ます。そういうわけで、もう一つの必要な務めは、説教にテーマ的一貫性と、明瞭な秩序、フレーズとフレーズの関連性を追求しなければなりません。そうして人々は説教者に容易についていくことができ、語っていることの論理を受け止めることができるでしょう。


[125] 同上、43: AAS 68 (1976), 33.

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