2014年4月30日水曜日

165 IV.ケリュグマを深めるための福音宣教>ケリュグマ(使信)的で秘儀伝授的なカテケージス(要理)



165.要理において《ケリュグマ(使信)》がより「しっかりした」と期待される養成の後で見捨てられてしまったと考えてはなりません。その宣告よりもしっかりとしており、より深く、より確かで、より濃く、より賢いものなどありません。キリスト者の養成はすべて、なによりもまず、ますますよりおおくよりよく肉としていき、要理の務めを決して照らさずにはおかず、要理において展開されるどのようなテーマの意義をもふさわしく理解させる、ケリュグマの深化に他なりません。それは人の心のすべてのうちにある無限の願望に答える宣告です。ケリュグマの中心性は今日どこでも必要とされている宣告のある種の特徴を要求します。それは道徳的、また宗教的義務に先立つ神の救いに関わる愛を表現するようなものであり、真理を押し付けることはなく、自由を明らかにし、福音的というよりはしばしば哲学的な、ほんの少しの教義の伝道に狭められることのない調和に満ちた喜び、価値評価、活力、統合性を特徴とするようなものです。このことは、福音宣教者が、宣告をよりよく受け入れるのを助けるいくつかの胎動を強要します。親近感、対話への開き、忍耐、判決を下すことのない心のこもった歓迎です。

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