2014年4月16日水曜日

153 第三章 福音の告知>II. 説教の準備>霊的読書



153.神の現存のなかで、テキストに落ち着きはまった読書において、たとえば、「主よ、〈わたしに〉このテキストが語っていることは何ですか?このメッセージで、わたしの人生の何を変えたいと思っていますか?このテキストの何が不快でしょう?なぜこのことにわたしは関心を抱かないのでしょう?」あるいは、「何がありがたいでしょう?このみことばで何がわたしを刺激するでしょう?何に惹かれるでしょう?なぜわたしを惹きつけるのでしょう?」などと問うことは良いことです。主に耳を傾けようとするとき、よく誘惑に遭います。誘惑の一つは、単に不快に思ったり馬鹿にされていると感じたりして、自分の殻に閉じこもるというものです。ほかによくある誘惑は、自分の生活に適応させるのを避けるために、テキストが他の人たちに語っていることは何かを考え始める、というものです。また、テキストの具体的なメッセージを薄めることができるような言い訳を探し始める、ということも起こります。ほかの機会には、まだ決断をする条件にいないのに、あまりに大きな決断を神が強いてきていると考えることもあります。こうしたことで、多くの人はみことばとの出会いにある喜びを失うに至ります。けれどそれは、誰も神である父ほど忍耐強くなく、誰も彼のように理解し待つことはない、ということを忘れることになるでしょう。父はいつも、もう一歩先に足を踏みだすようにと招きますが、可能な道をまだ歩んできていないのならば、完全な答えを強要することはないのです。単に、わたしたちが、自分の存在を誠実に見つめ、神の目の前に偽ることなくこれを提示し、成長し続ける心構えを持ち、主に、まだ達成できずにいることを求めるようにと望んでいるのです。

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