2014年4月17日木曜日

161 IV.ケリュグマを深めるための福音宣教



161.この呼びかけを教義的な養成としての除外的あるいは優先権を持つような成長として解釈するのは正確ではないでしょう。主の愛に対する応答として、主がわたしたちに指示したことを〈守る〉ことです。あらゆる徳とともに、あの新しい掟、第一のものであり、最も偉大なものであり、わたしたちに弟子としてのアイデンティティを一番よく与えるあの掟が目立ちます。「これがわたしの掟である。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1512節)。新約聖書の著者たちが最後のまとめ、一番本質的なもの、キリスト者の道徳的メッセージを絞ろうとした時、わたしたちに隣人愛と言う不可避の強制的なきまりが提示されるのは明らかです。「〈(隣)人〉を愛する者は、律法を全うしているのです。[…]だから、愛(するということ)は律法を全うする(ということ)」なのです(ロマ13810節)。このように聖パウロは、愛の概念が、律法の要約であるだけでなく存在の心と意義を成すという人にとって、「律法全体は、『〈隣人〉を自分のように愛しなさい』という〈一句〉によって全うされる」(ガラ514節)のです。そして自分の共同体に、キリスト者の生活を、愛における成長の歩みとして紹介するのです。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように」(Iテサ312節)。また、聖ヤコブもキリスト者たちに、「聖書に従って、…最も尊い律法」を果たすようにと勧告しています。どのような掟をも侵さないために「『隣人を自分のように愛しなさい』と」(ヤコブ28節)。

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