2014年4月11日金曜日

147 第三章 福音の告知>II. 説教の準備>真理への礼賛



147.なによりもまず、わたしたちが読む〈み言葉〉の意味をふさわしく理解するにあたって確かであったほうがよいのです。当たり前に見えるけれど必ずしもいつも考慮に入れられているわけではないあることを強く訴えたいと思います。わたしたちが学んでいる聖書のテキストは、二、三千年の歳月を経ており、その言葉遣いは今私たちが用いているものとはずいぶん違います。たとえわたしたちが自分たちの言葉に翻訳されている言葉を理解していると思えても、それは聖書の著者が表現しようと望んだものを正確に理解しているということにはならないのです。文学分析を提供する様々な方法が知られています。繰り返される言葉や目立つ言葉に注意を払うこと、あるテキストの構造とダイナミズムを認識すること、登場人物の占める場を熟考すること、などです。けれどここでの務めはあるテキストの細かい点をすべて理解することには向けられていません。最も大切なのはなにがテキストに構造や統一性を与える〈主要な〉メッセージであるかを見出すことにあります。もし説教者がこの努力を実現しないなら、その説教に統一性も秩序もなくなる可能性もあります。その論証は人を動かすことのない、ばらばらのさまざまな概念のかき集めに過ぎなくなるでしょう。中心的メッセージは、著者がまず伝達しようとしたことにあります。そこではある概念だけでなく、その著書が生み出そうとした効果をも認識することをも含むのです。もしあるテキストが慰めるために書かれたのなら、これを過ちを正すために用いることはあってはならないでしょう。もし勧告するために書かれたのなら、教理を植え付けるために用いられるべきではありません。もし神について何か教えるために書かれたのなら、さまざまな神学の意見を説明するための道いられてはならないでしょう。もし賛美や宣教使命に動機を与えるために書かれたのなら、最近のニュースについて情報提供するためにはこれを用いないようにしましょう。

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