2014年4月9日水曜日

137 第三章 福音の告知>II. 説教>典礼の文脈



137.ここで「神の言葉の典礼的宣言は、なによりも、聖体祭儀の集まりという文脈で行われます。それは黙想の時間や要理の時間というよりも、神とその民との対話の時間です。そこで救いの素晴らしさと契約の要求にいつも改めてなされる提案が口に出される対話の時間」[112]であることを思い出すことができます。秘跡的な一致の前に、神とその民との間でなされる対話の最も高次の瞬間であるがためにあらゆる要理を超える、その聖体祭儀の文脈からくる説教は特別に評価されています。説教とはすでに主とその民との間で始められているその対話を改めて取り上げることなのです。説教をする人は神の望みがどこで生きており、燃えているかを探すためにその共同体の心を認識し、その対話が、かつて楽しかったのに、どこで息苦しくなったり実りをもたらせなくなったのかをも認識していなければなりません。


[112] ヨハネ・パウロ二世、使徒的書簡『主の日』(1988年5月31日)、41: AAS 90 (1998), 738-739.

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