2014年4月9日水曜日

139 第三章 福音の告知>II. 説教>母のお話し



139.わたしたちは、神の民が、そのうちに働く聖霊のたゆまぬ働きによって、自分自身に宣教をし続けていると言いました。この確信は説教者にとって何を求めるのでしょう? 思い起こされるのは、教会は母であり、息子は自分が愛されていることを知っているので自分に教えられていることがすべて自分にとって良いと信じていることを知りながら、わが子に語り掛ける母のように民に宣言することです。しかも、良い母は自分の子どもに神が蒔いたものすべてを認めることができ、その心配事に耳を傾け、息子から学ぶことができます。一家族に満ちる愛の精神が母をも子をもその対話のうちに導くのです。その対話は教わり、学び、直され、良いことを認める場です。そのようなことが、説教においても生じるのです。聖霊は、福音に霊感を与えたものであり、神の民の中で働くものですが、どのように民の信仰に耳を傾けなければならないか、またどのように各聖体祭儀ごとに説教しなければならないかにもインスピレーションを与えてくれるのです。キリスト教的説教とは、つまり、民の文化に満ちた心の中に何を語らなければならないかを知り、どのようにこれを言わなければならないかのその仕方を見出すための生きた水の泉を見出すのです。わたしたちのだれもが、自分の母語で語ってもらうのが好きであるのと同様に、信仰においてもわたしたちは、「母となる文化」のツボにおいて、母の方言のツボにおいてわたしたちに語られることが好きなのです(IIマカバイ7章21節、27節)。そうすると心はよりよく耳を傾けるようにと構えるのです。この言語は元気、やる気、力、促しを伝達する声色なのです。

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