2014年4月9日水曜日

138 第三章 福音の告知>II. 説教>典礼の文脈



138.説教はエンターテイメントの見世物であってはならず、メディアのやり方の論理には答えませんが、祭典の熱さと意義を与えなければなりません。説教は特有の分野であり、典礼という祭典の枠組みの中での伝道について扱われています。そのため、短くなければならず、これが一種の講演会や授業のように見えるのを避けなければなりません。宣教者はおそらく一時間人々の関心を保つことのできる人かもしれませんが、そうすると、その言葉の方が信仰の祭儀そのものよりも重要になってしまうものです。もし福音があまりに長く引き伸ばされると、典礼という祭典の性格に悪影響を及ぼしかねません。説教の受け持つ部分とリズムとの間にある調和を崩すのです。伝道が典礼の文脈の中で実現される場合、父にささげられる捧げものの一部として、また祭典においてキリストが注いでくださる恵みの仲介として取り込まれることになります。このこと自体から、説教が集会を導き、また説教者をも導いて、生き方を変えるような聖体祭儀におけるキリストとの聖体的一致へと至るようにすることをが強く求められるのです。これは説教者の言葉があまりに多くの仕方を締めすぎないようにすることを訴えており、そうして主が奉仕者よりも輝き出るようになるのです。

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