2014年4月16日水曜日

154 福音の告知>II. 説教の準備>片方の耳は民に



154.説教者はまた、信者たちが耳を傾けるべきことは何かを見出すために、片方の耳を「民の中に」据える必要があります。説教者はみことばの観想者であり、かつ民の観想者でもあります。そのようにして、「その人たちの特徴、好み、(豊かさ、限界)、祈りかた、愛しかた、ものの考え方などを考慮に入れて、(その人の集団を他と区別するもの)」を見出します。それが「〈具体的な〉民にそのしるしと象徴とともに」注意を払い、これが突きつける問いかけに答えながら」行われるのです[120]。これは、聖書のテキストのメッセージを人間の状況、彼らが体験している何か、み言葉の光を必要とするような経験につなげることです。この配慮は日和見主義の態度や外交的態度には答えず、深く宗教的で司牧的なのです。深いところでは、「「さまざまな出来ごとのなかに、神のメッセージを読み取る…霊的感受性」[121]なのです。そしてこれはなにか語って面白いことを見つけることよりもずっと大きなことなのです。何とかして見出そうとするものは、「限られた状況において〈主が言おうと望むこと〉」なのです[122]。そこで、説教の準備は〈福音的識別〉の訓練となります。それは聖霊の光に照らされて、「歴史的(一定の)状況のさなかで神が発する呼びかけ」と、「この歴史的状況の中でまたそれを通して、…信仰者を…呼ばれる」ことを認識しようとする場なのです[123]


[120] 同上、63: AAS 68 (1976), 53.
[121] 同上、43: AAS 68 (1976), 33.
[122] 同上。
[123] ヨハネ・パウロ二世、シノドス後使徒的勧告『現代の司祭養成』(1992325日)、10: AAS 84 (1992), 672.

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