167.要理全体が特別に「美の歩み」(via
pulchritudinis)に注意を払うのは良いことです[129]。キリストをのべ伝えるということは、キリストを信じていること、キリストに従うことは単に本物であり正しい何かであるだけでなく、美しくもあり、さまざまな紙面のさなかにあっても、新たな輝きと深い喜びで命を満たすことができるということを示すことを意味します。この路線において、本当の美しさの表現はすべて、主イエスと出会うのを助ける小道として認識されることができるのです。真、善、美の間にある分かちえない絆を曇らせうるエステティックな相対主義を培うことではなく[130]、人の心に届き、そのうちに復活者の心理と善意を輝かせることができるための美しさの評価を回復することなのです。聖アウグスティヌスが言っているように、もしわたしたちが、美しいもの以外を愛さないならば[131]、無限の美の啓示である、人となられた御子は、最高に愛に満ちており、愛のきずなによって自分に引き寄せるものなのです。そこで「via
pulchritudinis(美の歩み)」における養成が信仰の伝達に取り入れられていることが必要になるのです。それぞれの教会共同体が、共同体として過去の豊かさをもって、福音化の務めの中で芸術の利用を鼓舞することが望まれますが、過去の豊かさだけでなく、新たな「たとえ話的な言い回し」[132]において信仰を伝達する秩序における、実際の多種多様な表現の広大さにおいてもこれを利用することを鼓舞するよう望まれているのです。新しい様々なしるし、新しい様々なシンボル、み言葉の伝達のための新しい肉体、福音宣教者にはあまり意味がないかもしれないけれど特に他の人々には魅力的になったような美の型にはまった形をも含め、様々に異なる文化環境のうちに評価される美の様々な形に大胆に出会わなければならないのです。
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