2014年5月4日日曜日

174 IV.ケリュグマを深めるための福音宣教>みことばを囲んで



174.説教だけが神のみことばで養われなければならないわけではありません。あらゆる福音宣教は聞かれ、瞑想され、生きられ、祝われ、証されたみことばによって基礎を据えられているのです。聖書は福音宣教の泉です。ですから、みことばを傾聴することでたゆまず自らを養成することは欠かせません。教会はもし継続的に自らが宣教してもらおうとしなければ、宣教をすることはできません。みことばが「ますますあらゆる教会活動の中心(心臓)」[135]となるのは不可欠です。聞かれ、祝われた神のみことば、特に聖体祭儀においてそうなされたみことばは、キリスト者を内側で培い、新たな力を与えます。そしてキリスト者が日々の生活の中で福音的な本物の証しができるようにするのです。すでにみことばと秘跡の間の古い対立は乗り越えました。宣言され、生きられ、効果的なみことばは秘跡を受ける準備をし、秘跡の中で、その言葉はその最大の効果を発揮するのです。


[135] ベネディクト十六世、シノドス後使徒的勧告『主のことば』2010930, 1: AAS 102 (2010), 682.

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