2013年11月27日水曜日

3 導入>I. 新たにされ伝えられる喜び


3. わたしはキリスト者一人ひとりを招きます。どこにいても、どんな状況において見出されるにしても、まさに今、このときにイエス・キリストとの個人的な出会いを新たにするように、あるいは、少なくとも、イエス様に見出してもらうようにし、止(や)むことなく日々これをしてみようとする決断をするように、と。この招きは自分のためではない、と考える理由はだれにもありません。なぜなら「誰も主によって告げられた喜びから除外される人はいない」からです[1]。挑戦する人を、主ががっかりさせることはありません。そして誰かがイエスに向かって小さな一歩を踏み出すものなら、その人はすぐに、イエスが両腕を拡げてその到着をずっと待っていたことに気づくのです。これこそイエス・キリストに「主よ、わたしはだまされていました。何千という方法であなたの愛から逃げてきました。けれどわたしはもう一度ここにいます。あなたと私との契約を更新するために。あなたを必要としています。もう一度わたしを救いだして下さい、主よ。もう一度あなたのあがないの両腕にわたしを受け留めてください」と告げる瞬間です。わたしたちが道を失ってしまった時に、イエスのもとに帰ることがどれほどわたしたちにとって益となることか!もう一度訴えかけます。神さまは決して赦し飽きません。わたしたちの方が神さまのあわれみを求めて近づくのに辟易してしまうのです。「七の七十倍まで」(マタイ18章22節)赦すようにとわたしたちを招くような かのお方は、わたしたちに模範を示して下さいます。神さまは七の七十倍までゆるしてくださるのです。わたしたちを何度も何度も改めてその肩に担いでくださるのです。この尽きることを知らず崩れることもないこの愛がわたしたちにもたらす尊厳を奪える者はだれもいません。神さまこそが、決してわたしたちを幻滅させずいつもわたしたちに喜びを取り返してくださる温もりをもって、わたしたちに頭をもたげ、顔を上げてよいとおっしゃり、もう一度やり直させてくださるのです。イエスの復活から逃げないようにしましょう。どんなことが起こったとしても、絶対に、もう自分は死んでいると宣言することがないようにしましょう。わたしたちを前に向かって送り出すそのいのちをしのぐものがなにもありませんように!



[1] パウロ六世, 使徒的勧告 Gaudete in Domino (9 mayo 1975), 22: AAS 67 (1975), 297.

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