2013年11月29日金曜日

7 導入>I. 新たにされ、伝えられる喜び


7.誘惑はしばしば、まるで喜びが可能になるためには数えきれないほどの条件が果たさなければならないかのように、いいわけや権利主張の形を取ります。これが起こるのはふつう「技術社会は快楽の機会を増やすことには成功したけれど、喜びを生み出すのがとても難しいと気づいている」[2]からです。わたしの人生の歳月で見たもっとも美しく自然な歓喜は、しがみつくものがほとんどないとても貧しい人々の歓喜であるということができます。また専門的 で大変な献身のさなかでも、信者の心、とらわれずつつましやかな心を保つすべを知っていた人々のほんものの喜びをも思い出します。様々な仕方で、その喜びはイエス・キリストにおいてわたしたちに示された、神の常に何よりも大いなる愛の泉において水を飲むのです。わたしは、福音の中心へとわたしたちを導くベ ネディクト十六世のあの言葉を飽きずに繰り返します。「人をキリスト信者にするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」[3]


[2] 同上, 8: AAS 67 (1975), 292.
[3] ベネディクト十六世回勅『神は愛』(20051225日), 1: AAS98 (2006), 217.

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