2013年11月28日木曜日

6 導入>I. 新たにされ、伝えられる喜び



6. 復活祭(過ぎ越し)抜きの四旬節のように見える生き方を選択肢として選ぶキリスト者がいます。けれどわたしにも、喜びというのは必ずしも人生の、しばしばとても厳しい、あらゆる段階や状況で一様に体験されるものではないということは分かっています。合わせたり変化したりしながら、そしていつも、あらゆることを越えて、少なくとも限りなく愛されている存在であるという個人的な確信から生まれる光のほとばしりのようにそこにあります。わたしは苦しまなければならない大変な困難のために悲しみに陥りやすい人のことが理解できます。けれど、少しずつ、少しずつ、信仰の喜びが、最悪の悩みのただ中ですら、目立たないけれど確かな信頼のように、目覚め始めさせるようにしなければなりません。「わたしは平和から遠く離れ、幸運というものをすでに忘れました。 [] けれど何かを記憶のなかに携えています。わたしを待たせている何かがあるのです。それは主の愛は絶えていなかった、その温もりは尽きていなかったのです。朝を迎えるたびに新たにされるのです。その忠実さは偉大です! [] 主の救いを沈黙のうちに待ち望むことはよいことです」 (Lm 3,17.21-23.26).

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