234.グローバル化と局地化の間にも緊張が生み出されます。日々の狭量な態度に陥らないためにグローバルなものに意識を向けなければなりません。同時に、わたしたちが地に足をつけて歩むことができるようにする局地を視野から見失うことはふさわしくありません。二つのことが一緒に行けば、こうした二極端のいくつかに陥るのを防ぎます。一つは、市民が抽象的でグローバル化を促す普遍主義、コーラの有蓋トラックの一時的な物まねを、他の人がやっている花火を見て、口を開けたまま感心してプログラムされた拍手喝さいを送りながら素晴らしいと感嘆しながら生きることです。もう一つは、いつも同じことを繰り返すことに定められ、違うことによって解釈されることも、自分の限界の外に神が注ぐ美しさを評価することもできない、局地的な隠遁の民俗博物館になってしまうことです。
2013年11月26日(火)、ローマ時間の昼前に 教皇フランシスコによる最初の使徒的勧告が出ました。 『Evangelii Gaudium(福音の喜び)』です。 ちなみに、オリジナルはパパ自らがスペイン語で書いたそうです。 中央協議会の訳が出るまで、しばしの間、 時間の許す限りぼちぼちゆるーくアップして行く予定です。 拙訳ですがお楽しみください。
2014年6月5日木曜日
233 第四章 福音宣教の社会的側面>III 共通善と社会平和>現実は理念よりも大切である
233.現実は理念よりも上位にあります。この判断基準はみ言葉の受肉とその在り方を実践に移します。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」(Iヨハネ4章2節)。現実の判断基準、すでに受肉し、いつも受肉していくことを求めているみ言葉の判断基準は、福音化の本質です。一方で、わたしたちが教会の歴史を救いの歴史として評価し、まるで福音をわたしたちがでっち上げようと望んでいるかのように、その宝と切断された考えをつくり出そうとすることなく、教会の二千年の豊かな伝承を取り上げるようにとわたしたちを導きます。他方で、この判断基準はみ言葉を実践し、そのみ言葉が実りをもたらすものとなるような働きにおいて正義と愛徳の業を実現するようにとわたしたちを促します。実践に移さないことやみ言葉を現実に持ち運ばないことは、砂の上に家を建て、純粋に理念のうちにのみとどまり、実りをもたらさず、その躍動力を不毛にするアンティミスムやグノーシス主義に退化させます。
232 第四章 福音宣教の社会的側面>III 共通善と社会平和>現実は理念よりも大切である
232.理念は、概念的につくられたものですが、把握や理解、現実の操作の機能のうちにあります。現実から切り離された理念は理想主義や非効率的な唯名論の源になっています。究極的には分類し、定義はするけれど、何かを呼び覚ますということはしません。何かを呼び覚ますものは、合理化によって照らされた現実です。形式的唯名論から調和に満ちた客観性へと移行しなければなりません。そうでなければ、真理に手を掛け、そうして体操を美容術で代用するようなものになります[185]。宗教的指導者をも含め、政治家のうちには、自分の提案はこれほど論理的ではっきりしているのに、なぜ民は自分を理解せず、ついてこないのかと自問する人がいます。おそらく、それは純粋に理念だけの国に自らを据え、政治や信仰を修辞に格下げしてしまったからかもしれません。単純さを忘れ、人々になじみのない合理性を外側から導入してしまったからという人もいるかもしれません。
登録:
投稿 (Atom)