2013年12月13日金曜日

53 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>疎外の経済に否を


53.「殺してはならない」という戒めが人のいのちの価値を保つためにはっきりとした限界を据えているのと同様に、今日、「疎外と不平等の経済に否」を唱えるべきです。その経済は殺します。道に住むような状況にある老人が寒さに凍え死ぬことがニュースにならないなどということはあってはならないのです。それは、袋の両端のうち一つが落ちてしまっているようなものです。それは搾取です。今日、誰もが競走のゲームと、力あるものがより弱いものを食いつぶすような弱肉強食の法則の中に入ります。この状況の結果として、人口の多くが、仕事もなく、地平線も見えず、抜け道も見えずに除外され、疎外されているのが見受けられます。人間を、自身消費の財産、使った後捨てられるようなものとして見做しています。わたしたちは「使い捨て」文化を始め、しかも促進させています。もはや単純に搾取や抑圧の現象を扱うのではなく、なにか新たなことをも扱うのです。疎外によってその根そのものにおける、自分が生活している社会に留まるということが影響を受けているのです。というのは、もはや中野下の方、郊外に力なくいるのではなく、外にいるからです。疎外された人々は「搾取された人々」なのではなく、捨てられ、「余った物」にされているのです。

2013年12月7日土曜日

52 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦

52.人類は今この時に、歴史的転換期を生きています。そこでわたしたちは様々な分野で生み出されている進展を見ることができます。人々の生活水準を高めるのに貢献する発展は称賛に値します。例えば、健康や教育、コミュニケーションの環境においてです。それでも、この時代の男女のほとんどは日々ぎりぎりのところで、致命的な結末に生きていることを忘れてはなりません。ある種の病理は増長する一方です。恐れや絶望は、豊かな国々と呼ばれているところでさえも、数えきれないほどの人々の心を支配しています。生きる喜びは頻繁に消え、尊重の不足と暴力が育ち、不公平がますます強くなっています。生きるためには気張らなければなりません。そしてしばしば、その戦いをほんのわずかな尊厳をもって生きるためにしなければならないのです。この時代の変わり目は科学の発展やテクノロジーのイノベーション、自然やいのちの様々な分野での物すごく速い適応においてなされる量的にも質的にも、ますます速くなりますます貯めこまれていくとてつもない飛躍によって生じてきています。わたしたちは、しばしば名のない権力の新しい形式の源である、知識や情報の時代にいるのです。

2013年12月5日木曜日

51 第二章、共同体的献身の危機にあって



51.現代の現実について詳細で完全な分析を提供するのはパパの務めではありませんが、全共同体を「時々のしるしを検討するつねに目覚めた能力」[54]へと鼓舞します。大変な責任を扱います。というのも現在のいくつかの現実は、もししっかりと解決されていなければ、今後取り返しのつかなくなりそうな非人間化のプロセスを始めてしまうかもしれないからです。み国の実りでありうるものと、神のプロジェクトに対して反撃をしようとするものとをはっきりさせるべきなのです。これはよい霊と悪い霊の動機を認識し解釈するだけではなく、ここに決定的なものが根差すのですが、よい霊を選び、悪い霊を拒むことまでも問われているのです。地方司教団と国レベルの司教団が提案したように、普遍的教導職の他の諸文書が提供した様々な分析を前提とします。この勧告では、司牧の眼差しをもって、神の民の命と尊厳に影響するからであれ、教会組織や福音を広める務めにより直接参与する人々の中にも関わるからであれ、教会の宣教的刷新のダイナミズム(躍動力)をとどめたり弱めたりしうる現実のいくつかの局面に短く留まるに限ろうと思います。


[54] パウロ六世、回勅『エクレジアム・スアム』(196486日), 19: AAS 56 (1964), 632.

50 第二章、共同体的献身の危機にあって

50.福音を広める活動と関係のある、基本的な問題についていくつか語る前に、わたしたちが生き、活動することになっているところの文脈はどうなっているのかを短く思い返しておくことはよいことです。今日、物事を乗り越え、本当に適用できる提案が必ずしもいつも伴っているとは言えない「行きすぎの現状分析」について語られることがしばしばです。一方で、中庸で淡々としていることが想定される仕方の方法論をもってあらゆる現実を包含しようとしているであろう、純粋に社会学的な眼差しもわたしたちには役立たないような気がします。ここでわたしが提供したいものはむしろ〈福音的識別〉の路線にあります。それは「聖霊の光と力をもって養われる」[53] 宣教をする弟子の眼差しなのです。


[53] ヨハネパウロ二世、シノドス後使徒的勧告『現代の司祭養成』1992325日), 10: AAS 84 (1992), 673.

49 第一章:教会の宣教的変容>V. 開かれた心を持つ母


49.出ていきましょう、出ていきましょう、すべての人々にイエス・キリストのいのちを差し出すために。ここで、ブエノス・アイレスの司祭団や信徒たちに何度も言ってきたことを繰り返します。わたしは、道に出ていったばかりに事故に遭い、傷つき、汚れてしまった教会の方が、自分についてくる自分の信者にこだわった閉じこもりや居心地のよさのせいで病的になった教会よりも好きです。わたしは中心になることに憂慮し、強迫観念や手続きの茂みに閉じこもって終わるような教会は望んでいません。もし健康的に心を落ち着かなくさせ、わたしたちの良心を心配させなければならないものがあるとするならば、それはイエス・キリストとの友情による力も光も慰めもなく、受け入れてくれる信仰共同体もなく、意義や生きることの地平も持たない兄弟たちのことでなければなりません。間違いを犯す恐れよりも、偽の支えをわたしたちにもたらす構造や、わたしたちを容赦ない裁判官にしてしまう様々の決まりや、外では数えきれないほどの空腹の群衆がいてイエスが止むことなくわたしたちに「あなたたちがこの人たちに食べさせなさい!」(マルコ637節)と繰り返しているのに落ち着いていられるような習慣に閉じこもることを恐れるようにとわたしたちが動かされることをわたしは望んでいます。